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映像に残された大津波の記録と記憶-東日本大震災

津波被害の甚大だった地域。サイドバーのリストをクリックすると、当該地域の関連ニュースと津波映像が表示されます。

東日本大震災から2か月以上が経過したものの、いまだ震災の爪痕は各地に刻み込まれたままである。あの日、東京でも激しい揺れに全身が凍りつくような恐怖を味わった。まして、震源から程近い東北地方の人たちのその瞬間の驚愕はいかばかりであったろうか。

しかし今回の地震ではそれ以上に、時間を置いて襲ってきた津波の脅威が凄絶だった。目を疑うような大津波の映像は、発生直後から繰り返しテレビのニュースで流れたが、時を経るにつれ、メディアだけでなく一般市民が現場で撮影したものが、YouTube 等で数々公表されている。生々しい肉声も交じるそれらの映像を見るにつけ、津波のもたらした悲劇が、あらためて迫真をもって伝わってくる。

ここに釜石市の一市民が撮影したと思われる映像がある。この15分あまりの動画は、津波の被害と危険が拡大していく過程を余すところなく描写している。

撮影者の周りにいるのは、サイレンと警報に促されて、海岸沿いの住居から高台に逃れた人々であろう。最初のうち、遠目に映る津波の白波を「見物」するかの如く、のんびり笑い声も交えながら眺めている様子だ。地震の揺れから何とか難を逃れ、やれやれとホッとしていたことだろう。しばらく待機して津波をやり過ごしたら、家に戻ってあれこれ片付けて、などと考えていたかもしれない。

ところが津波はゆっくりと(実は凄いスピードで)、海岸付近に接近してくる。サイレンの音が鳴り響き、しきりに避難勧告のアナウンスが流れ、ざわついてくる。波濤が視界に迫るにつれ、次第にこれはやばくないか、でかくないかという雰囲気が人々の間に漂ってくる。それでも余裕ある会話がまだ交わされている。と徐々に白波は陸地に迫り、海沿いに停まっていた自動車を流し始める。そのまま防潮堤を乗り越えると、「談笑」ムードが一転、「あれー、あらー、あー、街さきたんでねぇかー」という驚きと絶叫と悲鳴に変わってくる。続いて、「終わりだ!うわー!終わったー!」という絶望の声も。水流の音が真近に轟き始める。低地にまだとどまっている人々に向かって、「早くせー、逃げろー!」という叫び声が飛び交う。終に眼下の住宅やビルを呑み込み始めた。わが家と築き上げてきた財産が一瞬にして失われていく光景を、逃げ遅れた人が波に呑まれていく様子を、なすすべもなく目の当たりにするという残酷さ。恐らく「これは現実か?」という思いにも捉われたことだろう。

当初の警報では、釜石市の津波は「高いところで3メートル」と予想されていた。確かに、この映像のバックに聞こえる避難警報もそれに基づいてアナウンスされている。しかし、結果的に釜石を襲った津波の高さは9メートルに達していたとされる。気象庁は、当初の予報から「6メートル」、ついで「10メートル」に数字を切り替えたものの、市当局は停電により、その新たな津波警報を県から受信することができなくなっていたのだという。そのため、3メートルの津波なら家屋の2階でしのげると油断し、犠牲となった人たちもいたという。

今回の津波は、各地域で映像としてしっかり記録された。恐怖や教訓を伝え継ぎ、今後の対策を講じるにあたっても、それらは貴重な資料となるであろう。869年に起きた貞観地震以来、1000年に一度ともいわれる大津波は、被災者にとって一刻も早く忘れ去りたい忌まわしい記憶に違いないが、心ならずも命を絶たれた人々の無念を想い、復興の歩を進めるためにも残された映像を有効に活用することが望まれる。

Posted: 27 May 2011