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1944年8月4日朝、ゲシュタポが、アムステルダム・プリンセンフラハト263番地の建物内に密かに作り上げられた隠れ家に踏み込み、アンネ・フランクと両親、アンネの姉のマルゴー、同居していたファン・ペルス一家と歯科医フリッツ・プフェファーの8人を逮捕・連行した。1942年の7月から続けられてきた潜伏生活が、終わりを告げた瞬間だった。それは隠れ家メンバーが2年間、絶えず恐怖していた事態でもあった。
たったひとりの独裁者の出現が、アンネ一家を、そしてユダヤ人の日常を暗転に陥れた。アドルフ・ヒトラーは、ドイツ経済の困窮や国内問題の責めを、独尊的で商魂たくましいユダヤ人の存在に負わせ、アーリア人至上主義を標榜してユダヤ人の徹底的な排除を唱えた。その主張は第一次世界大戦以後、貧窮にあえぐドイツ国民の共感を呼び、ユダヤ人排斥運動がドイツ国内で激化していった。
ユダヤ系ドイツ人であるアンネの父オットーと母エーディト夫妻は、ドイツ・フランクフルトで平穏な生活を過ごしていたが、高まるユダヤ人迫害の動きに迫り来る危険を感じ、オランダ・アムステルダムへ一家で脱出する。オットーは当地で、ジャムの原材料や香辛料を扱う会社を起こし、数名の従業員を使って事業を営んだ。
しかし台頭著しいナチスは、1939年にポーランドに侵攻して第ニ次世界大戦を勃発させた後、翌40年、オランダにも進撃して瞬く間に占領下に置いた。アンネ一家は、ユダヤ人への圧力や行動制限が強化される中、オランダ国外への逃亡を諦め、オットーの使用人の協力を得ながらオフィスを改築して隠れ家を作り、一家と知人家族らとで潜伏生活を始めたのだった。
連行後のアンネ一家たちは、いくつかの強制収容所を転々とさせられる。やがてアンネと姉マルゴーは両親と引き離され、ドイツ国内のベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。劣悪な環境下、アンネとマルゴーは、1945年3月にチフスを患って短い生涯を閉じた。そのわずか2ヵ月後に、イギリス軍がこの地に侵攻して同収容所を解放している。
隠れ家生活を共にしたメンバー8人の中で、ただひとり戦争を生き延びたアンネの父オットーは、アムステルダムに帰還後、直ちに潜伏生活を援助してくれたかつての従業員ミープ・ヒースをオフィスに訪ねた。妻エーディトの死をオットーは知っていたが、アンネとマルゴーは、もしかしたらそこに戻っているかもしれないと一縷の希望を寄せていた。しかし2人の消息は不明のままだった。オットーは、新聞の尋ね人欄などで、2人を探し出そうと手を尽くす。
やがて、ベルゲン・ベルセン収容所から無事帰ってきた人物の証言を通じて、娘2人が同収容所で亡くなったことをオットーは知る。打ちひしがれるオットーに、ミープはアンネの日記帳を差し出した。ゲシュタポによる隠れ家捜索直後、床に散乱していたアンネの日記帳を拾い集めたミープは、机の引き出しに大切に保管していた。ミープはアンネが戻ってきた時に、アンネに直接手渡そうと、日記の存在をオットーに言い出さないままでいたのだ。
失意にくれるオットーは、1ヶ月の間、その日記を開くことができなかった。しかし次第に気を取り直してゆっくりと、1日数ページずつ読み進めていく。そして、アンネが隠れ家時代の2年間、つぶさに書き綴った文章に驚きと悲しみと面白さを覚えながら、自分が気づくことのなかったアンネの繊細で思慮深い内面と成長の様子を見出すのだった。
アンネ・フランクゆかりの地
Posted: 8 August 2010
References: ウィキペディア-アンネ・フランク
Anne Frank captured - History.com This Day in History
Anne Frank's History


